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セバステの40聖人殉教者  Sts. 40 Martyres de Sebaste            記念日 3月 10日


 烈しい吹雪にも喩えるべきローマ帝国に於けるキリスト教の迫害は、313年コンスタンチノ大帝の御代に終息し、聖会には一陽来復、信仰の春が廻って来た。けれどもその信仰の自由が比較的長く許されていたのは西ローマ帝国に於いてであって、東ローマ帝国に於いては間もなく又皇帝チリニウスの禁教迫害が始まったのである。
 その迫害は当初は密かに行われたが、やがて公然となり、信者達の中にはその圧迫に堪えかねて棄教した者も少しはあったけれど、また深山幽谷に身を潜め、荒れ野の果てに身を隠して信仰を全うした人もあれば、官憲の暴虐にも屈せず栄えある殉教の冠を戴いた勇士もある。次に記すセバステ町(今のアルメニア地方に在る)の四十聖人殉教者の如きはその最も著名な例と言ってよかろう。
 彼等はいずれも軍人で、勲功抜群の名誉ある第十二連隊に属し、猛勇にして果敢、誠に武人の典型として恥ずかしからぬ人々であった。所が彼等の隊がセバステに派遣された時の事である。東ローマ帝国チリニウスは彼等にキリスト教を信奉せぬ印に、偶像に香をを献ぐべき事を命じた。しかしかような命令に従えば勿論背教者となる他はない。されば彼等は皆「香を焚くような事は私共軍人の仕事でないばかりでなく。それにまた天主の掟にも背きますから・・・・」と言ってきっぱりと拒絶したのである。総督アグリコラウスは彼等如き勇士を四十人も殺すのを、いかにも残念な事に思い、或いはいろいろな甘言を以て、或いは様々の威嚇を以て、彼等を棄教に導こうと試みたが、彼等の決心は鉄石の如く、どうしてもこちらの意志に従わせる事が出来なかった。そこで総督は彼等の全身を鞭打たせ、その脇腹を熊手で掻きむしらせ、教えを棄てねばまだまだ恐ろしい苦痛をみせるばかり故、よくよく考えてみるがよかろうと言い渡して獄に投じた。
 が、再び引き出して尋問しても彼等の心は依然として変わらない。で、アグリコラウスは遂に死刑の宣告を与え、その処刑にも特別苦痛の多い方法を取った。それは彼等をセバステの町外れに引き行き、まだ三月の寒空に衣服を剥ぎ取り、降りしきる雪の中、そこの大きな池に張りつめた氷の上に座らせ、凍死させる事にしたのである。
 しかし四十人の勇士はかねて致命は覚悟の前であるから少しも驚かず、かえっていよいよ栄光の時の来た事を喜び、互いに顧みて励まし合い、「我等の主イエズス・キリストが荒れ野に於いて断食し給うたのも四十日、またモーゼがシナイ山で祈り、エリアが断食した期間も四十日、四十は聖なる数でございます。願わくは主よ、今四十人打ち揃って殉教せんとする我々に、この責めの苦しみを終わりまで耐え忍ぶ聖寵をお与え下さい!」と一心不乱に祈りを献げた。
 刑の執行に当たっている兵卒等は、歯を食いしばって冷たさ寒さをこらえている勇士達の傍らに温かそうな風呂を沸かし「キリスト教を棄てようと思う者は、早くここへ来て身体を暖めよ」と誘惑したけれども、信仰の勇士達は誰一人その手に乗りそうにも見えなかった。
 かようにして彼等がはや半死半生の有様になった頃、ふと風呂場の番をしていた一人の兵卒が天を仰ぐと、勇士達の上あたりに不思議な光が揺曳し、中を数多の天使達が手に手に燦然と輝く冠を持ってしずしずと降って来るので「これは神が信仰堅固なあの人々を賞し給うのであろう」と深く感じ入ったが、数えて見ると冠が三十九しかない。どうしたのかといぶかっている内、処刑を受けている中から「助けて下さい」と言いながら一人が這い出して来た。責め苦に耐えかね愚かにも棄教する心になったのであろう。それっと言うので兵卒等はその男をいたわり衣服を着せて、火の焚いてある風呂場へつれて行ったが、急に寒い所から暑い所に来た為か、心臓麻痺を起こして頓死してしまった。
 この天罰を目の当たりに見た先の番人は、天主の聖寵に心眼開け、カトリックの真の宗教である事を悟り、熱烈な信仰の念の燃え上がるままに「私もキリスト教を信ずる!」と叫んで自ら衣服を脱いで殉教の列に加わった。かくて一旦卑怯者の脱退で不足となった四十という聖数も、ここに勇士達の願い通り再び満たされて、欠けることなく済んだのである。彼等の歓喜は察するに難くあるまい。やがて勇士達は一夜の氷責めに、次ぎ次と倒れていった。裁判官はかかる殉教者の死骸を信者の手に拾われたくないと思い馬車に積んで場末に運ばせそこの広場で焼き捨てさせる事にしたが、唯一人メリトンという勇士だけは、年齢も一番若く、身体も丈夫であったせいかまだ息があったので、そのままに残しておいた。ところがその母が又雄々しい信仰の持ち主で、それと見るより傍に馳より我が子を励まし、他の馬車に乗せて三十九人の後を追ったが、その途中メリトンも母の膝に抱かれて遂にこときれたという。
 四十勇士の死体を焼いた灰は、河中に投げ棄てられたが、不思議にもそのまま水上に一塊りとなって浮いているので信者等が拾い取り、後に聖バジリオが之を納める聖堂を建て、彼等の偉勲を表彰した。以上が初代聖会史上に名高いセバステの四十聖人殉教顛末の大略で、時は我が主御降誕後320年の事であった。

教訓

 かの四十勇士中唯一の棄教者は、始めこそ他の人々と共に数々の責め苦をよく耐え忍んだのに、終わりに至って屈服したばかりに可惜九仭の効を一簣に欠き、聖人の列に加わる事が出来なかった。我等もこの前者の覆轍に鑑み、また「死に至るまで忠実なれ、さらば生命の冠を与えん」(黙示録2−10)と聖書にあるを思い、戒心して終わりまで耐え忍ぶ恵みを天主に祈り求めようではないか。